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リックス城は、厚く垂れ込めた曇天の空の下、荒れ狂う海の上を飛んでいた。
横殴りの雨と雷雨を纏った暴風の吹き荒れる中で、城の塔上に掲げた旗が引き千切られそうにはためいている。城塞都市として作られたこの国は、周りを競り上がった壁に囲まれ、
それ自体が城の体を成す。巨大な城は山と森と河を内包し、家々はその敷地内でちょっとした大きさの村を形成していた。グラビガを浮力として移動する浮遊都市国家リックスは、元々旅の流れ者や商人達で構成された国だ。
もとあった「リックス」という村の土地を地面から深く切り取り、土地ごと固めて浮遊させ旅を始めたのが最初の発祥だ。
以後都市国家リックスは様々な土地に立ち寄り、一定の秩序の元自由な商いと旅宿が提供されていた。だからあまり大きくない。所謂、法や兵や階級の少ない都市国家だ。その分近隣諸国との摩擦も少ない。それ故にこの国は栄え、いつも商い人や大道芸人、吟遊詩人や旅人で溢れ返っている。
しかし、普段は活気あるこの村も、今は市も立たず、家々は戸口を締め切り、人っ子一人姿はない。浮遊城は嵐の真っ只中にいた。ちょっと妙なのだ。城付きの予言士も天候を間違えたくらいだ。それでこんな進退窮まる事態に陥っていた。
暗い豪雨の下で、カンテラの灯が微かに光った。バッツは片手にそれを掲げ持ちながら、雨具が変わりのマントを頭からすっぽりかぶって城壁の縁を早足で歩いていた。
勿論、皆寝静まった後である。こっそり抜け出して来たのだ。バッツは城付きの予言士の一人だった。予言士と…後複数役職を持っているが、今この嵐の時は予言士としての役割が一番重要だった。
天候予測の予言はほぼ十割勝率がある。バッツは生半な予言士なので、良く間違うが、リックスにいる予言士達が拠ればまず「今日のお天気」を外す事はない。今日この海は快晴で、水面に映る夜空の星も眩しい静かな夜になるはずだった。
(変だ)
バッツは城壁の縁から身を乗り出すと、硝子丸盤付きの真鍮ランプを掲げて海面を照らした。闇夜が染み込んだ黒い波が渦巻くように蠢いている。予測が外れるという事は、何処か外界からの変動が自然の理に影響を与えているという事だ。
病身の父は、寝台の上から村人に言った。とにかく今夜は、皆眠ろう。天候が荒れ始めたのは日が暮れてからで、原因を探る暇も何も無かったのだった。海からみるみる内に黒雲がわき、嵐は浮遊城を取り巻いた。
バッツがやっているのは、自主的な見回りだ。嵐で眠れなかったし。こう言う日は駄目と言っても、どうしてか田圃を見に行く、じい様なんかがいるものだ。波は高く、海沿いの畑は既に浸水していた。浮遊城の内部は土を積みゆるい丘の様な作りになっており、外から見るより隙間が多い。
これ以上の浸水はしないだろうが、海沿いの畑を見にいってうっかり足を滑らせたら命を取られる。海に落ちたら助からないだろう。
(不注意で死ぬのも自己の責任だけど、未然に防げたらそれに越した事は無いよな)
バッツは硝子の丸盤の位置をずらすと、ランプを城壁の下へ向けた。何もいない。ほっと溜息をつきかけた時、視界の端に何か赤いものが見えて、バッツはランプを担いでそちらへ灯りを動かした。
「血だ」
照らされた水面には血の筋が浮いていた。まだ新しい。鮮血だ。照らされた朱色は瞬く間に波に飲まれていく。バッツは急いでその後を追おうと硝子の丸盤を上向けた。ランプの中で光るファイアの魔法に力を籠める。いっそう照らす先が明るくなって、水面から反射した金色の光が硝子に当たりバッツ思わず目を眇めた。
金色の光に当てられて目がチカチカと酩酊する。瞬きをしながらもう一度照らす先を見ると、波に飲まれかけた金髪と、白い両手がひらひらと頼りなげにばたついている。何かをつかもうともがいているのか、溺れるその身体はもう頭髪と指の先以外海中に沈みこんでいた。
「人間だ!」
バッツは一声叫ぶと、腰布を解いてそこにあった樽に結わえ付け、それと一緒にそのまま海へ飛び込んだ。飛沫が飛び、冷たい夜の海が身体を包む。目を開けると、周りは真っ黒な水中だ。しまった。命綱を忘れた。ていうか浮力にするつもりだった樽が重い。致命的な失敗。だが飛び込んだからもう遅い。気を取り直して、水面に上がる。
水面に顔をだしたバッツは直ぐに泳ぎ出した。冷えた海流の塊を掻き分け、体中に纏わりつくあぶくを振り切るように、バッツは溺れるその人に向かってどんどん泳いで行く。両手を伸ばして、白い腕に手を伸ばす。
「掴まれ!」
白い人はもう顔を上げる気力も無いのか、波に攫われるように流されて行く。バッツはもう一度大声で叫んだ。
「掴まれ!」
白い人が顔を上げる。白い手が震えながら右往左往して、その指の先端がバッツの指先に触れた。バッツはそれを逃さなかった。ぎゅっと掴んだ指を握りこみ、抱き寄せる。
夜の冷たい海にさらされたであろう白い人の身体は、冷えて色を失っていた。止め処なく降る雨にあたっても頬や首筋が変にまだらなのは、そこから血が出ているからだろう。どうやら足も動かないらしい。さっきからぴくりともぱたつかない。
白い人はぐったりと目を瞑ったままバッツに身を任せている。バッツは泡を食ってその人の頬を叩いた。
「おい、起きてくれ!死ぬな!眠っちゃ駄目だ!」
バッツはその人を抱きかかえたまま、波をいなして魔法を唱え始めた。口の中に雨粒が飛び込む。嵐の中で詠唱の声が嫌に大きく響きわたった。
「起きてくれ!ケアルガ!レイズ!アレイズ!」
白い人の周りに魔法が集まる。青白いの癒しをもたらす光の煌めきが起こり、生命を取り戻す天使の幻影が指を振った、白い人が身動ぎする。バッツは安堵して後ろを振り返った。
「!」
そこに何も無かった。髪を振り乱して、辺りを見回してバッツはゾッとした。浮遊城の影は最早泳いで帰れない程に小さくなっている。バッツが見ている間に、大きな波が視界を遮り、その姿は完全に海の向こうへ消えてしまった。思っていたより流されてしまった様だ。三方は暗い闇そのもので、何も無い。無だった。
無。無は怖くは無い。怖くはないが、このまま泳ぎ続けてはいられない。ふとバッツは、自分の身体が予想以上に凍えている事に気がついた。夜明けはまだまだだ。
(いやまだだ)
浮遊魔法を使ったら、ぎりぎり城まで帰れるかもしれない。何時まで浮き続けていられるだろう。
白い人が顔を上げたので、バッツはまた視線を戻した。
その人の腕がバッツの肩に回され、金の睫毛に縁取られた瞳が開く。バッツは驚愕して目を見開いた。金色の睫毛の下の瞳には白目がなく、宝石を填め込んだ様な蒼く両眼が光っていた。
その瞳がじっとバッツを見据えた時、意識はぶっつりと途絶えて消えた。
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